初期の民放ラジオ
昭和25年6月になって、放送法をはじめとするいわゆる「電波三法」が施行され、26年4月、民放初の予備免許が、ラジオ東京ほか16社に下りました。
民間放送の扉が開かれたのです。
先に触れた中部日本放送、新日本放送の第一声は、このような背景のもとに発せられたものでした。
当時、新日本放送の放送部長兼営業部長だった小谷正一は、こんな証言を残しています。
「・・・・・放送番組を担当するだけでも大変なことでした。方眼紙を買ってきましてね。
そこに、縦に1週間7日分の罫線を入れ、次に横に朝6時から夜12時までの18時間分の罫線を入れ、その一コマごとに四つの番組を当てはめようとすると、1日分でざっと70種類の番組、1週間で約500種類の番組を考えなきゃならない。
これには、・・・・・思わずゾーっとしましたね」(渋谷重光著『語りつぐ昭和広告証言史』)しかも、すでに放送事業の経験をつんでいたNHKとちがって、なにからなにまで初めてとあって、初期の民放ラジオはミスや事故の連続。
番組は途中で時間切れになる、アナウンサーはトチるで、その都度、「お詫び」をするものだから、「お詫び放送局」とまでいわれたそうです。